仏教専修科

活動記録:老虎机游戏七年度仏教専修科開講式

活動概要

4月9日、仏教専修科開講式が本学法堂にて行われました。

殿鐘三会七下鐘で導師の千葉学長が上殿し、その後、拈香法語、普同三拝、献湯菓茶と進み、全員で般若心経を誦しました。回向、ふたたび普同三拝の後、学長の訓示が行われました。訓示では道元禅師の『普勧坐禅儀』の「いわゆる坐禅は習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり」という一節がとりあげられ、ミヒャエル?エンデの寓話を交えたお話がありました。

式の後、場所を移して学生?教員の自己紹介と講義の日程調整を行いました。これをもって仏教専修科の本年度の活動が始まりました。

学長訓示

皆様こんばんは。ただ今は、本年度の仏教専修科開講式ということで、般若心経を一緒にお上げすることができました。いよいよ新年度スタートであります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ようこそ仏教専修科へ、皆様のお越しをお待ちしておりました。

 萩野寛雄先生はじめ、先生方はみなさん、優しいので、気持ちを楽に、そしてその中にあって学びに対する志を常に胸に持っていただいて頑張っていただきたいと思います。また先生方、本年度もどうぞよろしくお願い申し上げます。  昨年は大本山總持寺様での瑩山様の七百回大遠忌がございました。印象的だったのが、すでにお山で安居されている先輩方が、一緒に力を合わせてご修行になっている姿が、大変頼もしく見えました。

やはり、仏教専修科を出られるというのは、とてもいいことでありまして、全国を巡っておりますと、意外なところで「私は東北福祉大学の仏教専修科の出身です」と仰っていただく方が結構いらっしゃいます。ご住職になっている方が多いんですけど、中には寺族様や、あらゆる所から仏の道、そして仏の教えを世の中にというさまざまな関わり合い方で尽くされている先輩が多くいらっしゃいます。

そして、今年はとりわけ、明治八年に始まって創立百五十周年の年、そこに先輩方を含めてこの一年を共に過ごすことができるということは、大変稀有なことでありまして、入学式の時も申し上げましたけども、願ってもできないことでございます。その節目にご一緒するということは珍しいことなのです。先輩方も頼もしい先輩方がいらっしゃいますから、常に修行というものもそうですが、勉強の方でも、楽しい時は仲間がいると倍になり、苦しい時は半分になる、半分以下になる。ですから、どうぞこれから履修の相談などもありますけれども、先生方や頼もしい先輩方に声をかけていただくと、ありがたいと思うわけです。

「いわゆる坐禅とは習禅にあらず、ただこれ安楽の法門なり」という言葉がございます。建学の精神、曹洞宗の道元禅師が『普勧坐禅儀』の中で仰っています。『永平広録』という、全部で十巻の巻八ですが、『普勧坐禅儀』は、まず日本に帰ってこられて最初に書かれたもののひとつであります。そこには、坐禅というものは「習禅にあらず」、トレーニングではないんだと。仏教のことや禅の教えのことについてあまり詳しくない方は、「坐禅は厳しいだろう、苦しいんだろう」と、そういうイメージがあるだろうと思うんです。確かに、本当に修行に行ったら、それは大変なことももちろんあります。でも、これは坐禅に限りませんが、スポーツでもそうだと思うんですよね、練習はもちろん苦しい時もあるでしょう。でも、やはりそこには楽しさというのか、もっとより大きな、苦しみも包み込むほどのもっとそれは問題にならないほどの喜びと充実感と楽しさというのがあるものでありまして、勉強もそうだと思うんですね。国家資格試験の合格を目指して勉強する、夜も寝ずに勉強する、これは大変つらい、厳しいことがあるかもしれません。でもその先にある目標を手に入れ、卒業する時に、自分の学びの目的が達成されて、何とも言えない喜びがあるのでして、また、苦しい時に、互いに支え合ったときに、仲間が、あるいは親しくした先生がそばで声をかけてくれる、いつも寄り添ってくれる人がいれば、それは何ものにも勝る喜びになると思うんですね。ですから、仏教とか禅の修行とかいうと、色々な先入観があるかもしれませんが、どうぞまっすぐな気持ちで始めていただきたい。仮に二年生、三年生、四年生の先輩がたもそうです。今からでも、常に純粋でまっさらな気持ちで勉強すると、それ自体が楽しいものになっていきます。ですから、これも誤解の多い言葉ですが、「無心になる」とはそういうことだと思います。「無の境地で坐禅をする」と、よく多くの方からも言われますが、「頭を空っぽにする」ということではないんですね。そうではなくて、「純粋な思いですべてに打ち込める」と言った方が近いかもしれない。純粋な気持ちになるということです。

去年の暮れのことですが、広沢克己と「ムカデとカエルのお話」で盛り上がったことがありました。せっかくですから今日はその「無の境地」について、盛り上がった話を。

それはミヒャエル?エンデの寓話なんですが、「坐禅は安楽の法門なり」という言葉を考えますと、「安楽」は安らぎの教えであり、修行とは法悦なのです。実際に、午後の坐禅のことをお釈迦さまは「午後の坐禅を楽しんだ」と、南伝大蔵経あたりには「娯楽を楽しまれた」と書いています。最初「娯楽」というと「レクリエーションでもやったのか」とおもいましたが、そうじゃないんです。坐禅とか修行とかって、本来法を楽しむものなのです。学問とは楽しむものなのです。それは言われてやるものではなく、自ずと自然とわきあがった身に着いた学び、自然に体が動くものであろうし、自然に自分で考えるようになる。まあ、ひとつの学びの理想ではないかなと。それが「無心」ということだと思いますね。

いずれ私たち人間はいろんなことを、雑念、あるいは迷いを抱えて生きている。これは仕方がないことです。でも、どうぞ仏教専修科は、我が家と思ってください。純粋な気持ちで、原点に帰るつもりで参加していただけたら、きっとそれは自然に美しい踊りができたムカデさんにもなれるし、そして、私たちもいつの間にか、立派な人間になれるような道が見えてくるはずだと、いつも思いながら参加しております。 あらためてようこそ仏教専修科へ。今日は昔話になりましたけれど、色んな学びが先生方や先輩から、あるいはお互いにあるものと思います。それを楽しみながら、学生生活を送っていただきたいと願っています。以上です。